走生の架け橋45(違和感に違和感)
研究者・教育者の問題意識に違和感を覚えた。
その理由を(一部の)大人の世界を参考に列挙してみた。
1、ランニング嫌いをなくそうとする視点
→嫌いでよいのではないか
→過去の嫌悪感を覆す事例はいくらでもある。その大半は自ら動いた人たち。
→並びに嫌悪感はどのランナーにも存在する。そこから逃げようとする態度の方が問題。
2、ランニング好きを増やそうとする視点
→好きにならなくてもよいのではないか
→好きにさせようと誘導することは指導者のエゴではないか
→「好きこそものの上手なれ」は理想論。
→総体的な価値判断として一部の人間が好きというのならまだよいのでは。
3、楽しい授業を目指そうとする視点
→なぜ楽しくない授業ではいけないのか
→楽しいことが良いことという価値観を押し付けてよいのか
→快楽主義を推奨することとそれほど大差はないのでは
→快楽を癖にする子供たちを量産するのでは
4、評価指標が一元的である点
→記録の変化が体力の向上を示すとは思えない
→大半は一時的な慣れで一時的な記録は上がる。これは体力にカウントできない。
→以後も自分で行わなければ1つの経験だったとしかいえない。それはそれでよい。
→いかに自分に対しての理解が深まったか、その後の行動変容があったかの方が重要。
5、(変化のないランニング教育は)学校だからという理由付けが仮にあるとすれば
→(指導者にとっての)管理のしやすさが実際の理由ではないか
→(指導者の)アイディア不足、勉強不足が実際の理由ではないか
→自分で取り組むランニングスタイルを子どもがわかるように提示できていないのではないか。
→その要因は指導者本人が実践してこなかったからではないか。
→これはランニングに留まるものではない。
すべてがおかしくないか。
いかに速く走れるかを追求させるよりも
いかに走る経験から自分固有の気づきを生み出し
それを生かし続ける流れを経験させることの方が重要ではないか。
これはひとえに
オリンピック選手全員に金メダルを取らせようとする風潮と似ていないだろうか。
(覚めている人たちの方が圧倒的に多いのに)
その背景には
そうならないと
モノ・サービスが売れない・流行らないという
現代社会の魂胆が垣間見える。
メディアか政策か
教育現場も同じではないか、、
全員にわからせようとする
全員に楽しませようとする
全員に価値を伝えようとする
これらの態度は初めからおかしいのではないか。
社会人ランナーの一部が
誰からの評価も気にすることなく
自分なりの内省を繰り返しながら
ランニングを生活の中に組み込む態度とそのスタイルは
大いにこれからのランニング教育(学習)に生かせるのではないか。
はたまたこれからの教育(学習)の在り方を考えるうえで大いに参考になるのではないか。
(つくづくつづく)