第11期おとなの寺子屋修了!
おとなの寺子屋も11年目が終わりました。
「耆に学ぶ」
といったら失礼なのかもしれませんが、
仕事にましてや教育業に勤しむ壮年・中年が
うぬぼれることなく職に打ち込むには
やはり
ベテラン世代の言葉に耳も心も傾けるべきではないかと
(私自身は) 思い直していました。
定義しがたい「生きる」の意味について
最終回にそろった3名にお尋ねしたところ
みなさんうなりながらも以下のご回答を頂きました。
これからの参考にさせて頂きたいと思います。
Aさん
正直生きるということは本当に難しいことだと思います。
今までの経験とかを生きてきた中でこれを振り返ると、その都度いろんなことに対して考えながらずっと過ごしてきたと思うんですけど、それはずっと悩んできたことと同じではなかったかというようなことを感じました。
ずっと連続して悩むというのは、それこそ子供の時の喧嘩だとか、あるいは受験だとか、社会に出てからのいろんな行動について、僕は一言で悩むという表現をしちゃったんだけど、その中で、その都度それに対しての満足感だとか、あるいはその逆の挫折感だとかというような、いろんなそういう状況を味わいながら今ここの年まで来て、これは先どうなるか分かりませんけれども、考えながら悩みながら、それで静かに消えていくと、一応それが僕自身の生きるっていうかね。 それに対しての一つの見方じゃないかな、というように感じました。
Bさん
今のH先生のここのお手紙でもう少し早くこういうことを聞けば人生・生き方が変わっていたのかなと思いました。
一番思ったのは「疑問を持つこと」が、それを「飛躍して理解をするということ」。
池に石を投げて破門になっていくようなそういうことかなと思いました。
最近、特に人生はどういうものかということで、「死ぬまで生きろ」ということをこれはテレビで言ってたんだけど、「死ぬまで生きろ」ということで、生き方としてどういう生き方がいいのかなということで。 それは今日して早速4人の孫にこんな話をしてやろうかな、と思います。
Cさん
生きるっていうことと合っているかちょっとわからないんだけど、「大事にしてきているもの」ってだんだん年齢とともに自分の中では変わっているなっていうのが、子供を一生懸命育てているときは、子供に対して自分が一生懸命やることがみたいな感じでやってきたと思うんですけどね。
今も子どもも人と2人の生活になってくると、今のこの時間を大事にしたいというか、年齢とともに健康ということに対する意識がすごい大きくなっているなというのを感じるんですよね。
今まで仕事しているときなんかは周りと合わせてことを行うというか、自分はちょっとそうは思っていなくてもじゃあ、みんながそうならそうしようみたいなところで過ごしていることが多かったので、自分らしさというものを出してきた。 そういう人生だったように思うんですよ。
なので、大げさなことでなくてもいいから、これからは自分らしいっていうのを納得してね、 やっていきたいなって、この頃すごい思うんです。
私は本当はそうだったんだよなみたいなことが時々思い返されるんです。
あの時のこういう場面では自分も賛成したけど、本当はそうじゃなかったみたいなことがあってね。
どうしても仕事上、あの大勢の職員でやっていると自分なりが通らないことがあるんですよ。
だからそれはまあ、言い訳になっちゃうのかもしれないけど、そこを丸く納めるみたいなことをやってた自分がいたのでね。
うーんなんか自分自分の顔を張るじゃないけど、自分らしさっていうのを忘れないでいたいなぁ。 そういうの思いますね。
難しいことがよくわからないですけど、これからは我慢しないで生きていこうって思いますね。
さっきもあったけど、ものごと深く知るとか、そういう経験がなくてね。
これから自分ができることをやっていきたいなって思うんです。 こういうことも教えていただかないとね。 なかなかわからないじゃないですか。
私たちの時代ってこうするべきっていうレールがあってそこを歩いてきたのでね。
今はいい時代だからなるべくいろんなところにアンテナ張って、楽しくやっていきたいなって思います。
